アンノウン・フロム・ジ・アビス
退院後ほぼ1ヶ月が経ち、左目が見えにくくなったことと維持治療薬を飲み続けていること以外は日常を取り戻していた。どっかしらの筋肉がたまにピクピクする瞬間が一日に何度かあるのは気になるが、他になんとか症の影響と疑われる症状が出ることはなかった。
2ヶ月弱の入院期間を経て、強めのパーマをかけていた髪は伸び放題に伸びてマングローブのように膨れ上がっていた。職場で作業帽を被ると耳の上からはみ出た髪がカールして橋田至になるのがとても嫌だったので、4ヶ月ぶりに行きつけの美容室の予約を取り付けていた。
大学生の頃からずっと同じ美容師に散髪を任せており、もう10年とかになる。今更気を遣う必要がないので、就職して他県に移ってからもわざわざ高速運賃を払ってでも定期的に通っている。
☆★☆
予約当日は生憎の大雨だった。3月に入って晴れが続いていたのに、出勤以外で久々に外出する日に限ってこの仕打ちである。唐突な難病宣告スタートを切った2021年が人生最悪の試練の年であることを強制的に実感させられる。
シャワーを浴びて昼過ぎに家を出た。昼食は高速を降りてから適当な店で済ませるつもりでいたが、この気分のときは大抵何故か道沿いに都合良く現れるかつやに漂着する。この現象には名前をつけるべきだと思う。
今回もバイパス沿いに現れた謎のかつやに吸い込まれ、赤辛カツ丼を貪るといよいよ一服したい気分になる。服薬に絶対良くないと理解していながらもタバコを絶っているわけではない。
かつやの隣の店の軒先に灰皿が設置してあることを確認すると、半自動的に動く手先が素早くタバコを咥えさせる。
……
こういった何気ない時間には、いいメロディが頭に浮かぶことが多い。タバコに火を点けると、脳内のモニタースピーカーが完璧なミックスの創作アニメ・ソングを爆音で再生し始める。
ルン♪ ルン♪
………………… ………………
パーラメントの崇高な煙が肺胞に侵入すると、音像は更にクリアさを増す。ギターが力強く唸る。ドラムが活き活きと弾ける。
「まりっ。」
ピアノが艶やかに響く。ボーカルが観客を魅了する。
まりっ。が……
あ?
「まりっ。て何だ?」
音楽は鳴り響く限り人を魅せる。
当たり前に見える「存在」さえも、当たり前に視せぬ程に。
尻が、灼ける。
湿り気が臀部の皮膚にどんどん拡がっていく。
「あ、あ……、あ………………」
俺はこの日、生まれて初めて糞を漏らしてしまった。
漏れた量的には大したことはない。だがよりにもよって俺がこれからオシャレな美容室に向かうところであること、さらに何とか症がもたらす重い症状のひとつに排泄障害があることを即座に思い出してしまう。
ミクロの不安とマクロの不安が混ざり合って放たれたメドローアは俺の精神を容易く灰燼に帰し、正気を失わせるには十分すぎる「災厄に準ずる威力」と評してもよい。
糞が漏れたのに、引き続きタバコを吸っている自分がいる。糞が漏れたことを現実として全く受け入れることができないのだ。
1分半くらい呆然と立ち尽くしてからかつやの店内に戻り、レジ横の便所に駆け込んでジーンズとトランクスを一目散にずり降ろすと、紛れもなく糞そのものがタマネギ片と一緒にパンツにこびりつき、ジーンズの生地まで汁が染みている。
学生の頃から愛用しているプレイボーイの柄入りトランクスは最早救うこと能わず、こびり付いた主要な糞片を備え付けのトイレットペーパーで拭き取ってから、便器横のサニタリーボックスに葬送する。
ケツも十二分に拭き上げてから、ノーパンのまま糞の染みたジーンズを履き、忍者の如き足捌きで2度目の退店を遂行するのであった。
美容室の予約時間まであと35分しかない。何事もなければ余裕で店に着ける時間だが、糞の染みたジーンズを履いてノーパンのままオシャレな美容室になど入れる筈がない。
糞汁が染みないように大量のティッシュを運転席の座面に敷いてから直ぐ、替えのパンツとトランクスを買うためのアパレルショップを探し始めたのだが全く見つからない。渋滞を越えて目的の美容室を通り過ぎた先にあるゴルフ用品店に何とか滑り込むも、スポーツウェアなのでどれも裾上げが前提の作りをしており喫緊のリザーバーは務まらない。
美容室に電話して遅刻することを伝え、店横のローソンでボクサーパンツだけを買って履き直し、ジーンズは「染みた」ことを隠してオシャレな美容室に入ることになった。
☆★☆
「あ、あの、今日は、あまりパーマを、その、あの、ゆるめに、その、」
話慣れているはずの美容師なのに、呂律の回った声での意思伝達が全くできなかった。美容師も困惑して怪訝な反応をしている。そもそも遅刻した理由として
「うんこ漏れたから」
なんて口が裂けても言えるわけがない。
脂汗をかきながら、自分が難病を患って2ヶ月入院してたことを伝えつつお茶を濁した。本来客が美容師に対してしてもいい重さの話ではないのだが、すぐに理解を示してくれた。こういった忌憚のないやり取りが自然に実現するというのが、頑なに美容室を変えられない理由のひとつでもある。
美容室にいる間、また自分の意思に反して糞を漏らしてしまうのではないか?と気が気ではなかった。
そして糞を漏らした着の身着のまま、それをひた隠しにしていつも通りのサービスを受け続けている己のクソさを恥じていた。まあ糞なんだけど。
口が勝手に余計なことを口走り始めた。
「俺の病気なんですけど、人によっては『排泄障害』とか出ることあるらしくて…」
「うわぁ〜、それはやばいね。。。」
や、やっぱやばいのよな。。。。
…
「まあポジティブに捉えて、前向きに生きていこうよ。」
「お、おれはそんなに悲観してないっすけどね笑笑笑笑笑笑」
「そっか〜。じゃあ、またね〜。」
結局最後まで遅刻の理由を問われることはなく、美容師がコミュニケーションのプロであることを改めて思い知る結果となった。
美容師の言うとおり、前向きにポジティブに捉えて生きていくことは大事だ。それがたとえ、糞を漏らしたということだとしてもね(は?)